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1994年のこと
昔使っていたスケッチブックをみていたら、こんなメモ書きがしてあるのを発見しました。94年9月と記してあります。

「日本は物質的には豊かかもしれない、けれど生活は全然豊かじゃない。役所や政治が”生活の豊かさ”の為に働いていないから。お金のため。香港は”生活の豊かさ”のために法律がどんどん変わります」

「仕事はもちろん大切だけど、本当に人間を大切にしないと死んじゃうよ、きっと。一番大切なのは人間じゃないですか」

「10万円の安キップでパリに行き、残りの40万円全部をうまいワインを飲むためにはたくことだって考えられる。すべてをほどほどで使ってしまう50万円よりも、その方がかえって豊かさを創りだすのかもしれない」

夏休み、ビーチで読んでいた雑誌のコラムだったと記憶しています。15年経った今でも共感。


TMWその4ナンバーナイン宮下さん編(最終回)
今シーズンでその歴史に自ら幕を閉じるナンバーナイン宮下さんもTMWに参加していただいた。当時清永さんが宮下さんと飲んでいるときにTMWの話になり、宮下さんもミッキーが以前から好きだったということで「まだ間に合いますか?」「ぜんぜん間に合います、ぜひおねがいします」と僕。ナンバーナインのことはこのとき知った、ブレーク前夜である。当時のナンバーナインのオフィスは青山の裏手の静かな場所に位置していた。土曜日は比較的時間があるということで、打ち合わせはいつも土曜日午後1時、普通のサラリーマンの僕には少々辛かった記憶がよみがえる。1時にオフィスに伺うと清永さん同様まだ宮下さんはいなかった。おしゃれは少々時間に甘い、僕の頭にインプットされた。ほどなく宮下さんがあらわれる。とても素朴で物静かな印象。そしておもむろにミッキーのデザイン画を提示される。早い。そう、あの伝説のロックなミッキー誕生の瞬間である。実はこのとき3パターンのデザインが存在していたが最終的に2パターンになった。そしてカラー展開は所謂ミッキーカラーとモノクロのナンバーナインカラーの2配色で決定。早い。だが、スタートが遅かったのが響き、結局6月2日のオープンには間に合わず、サンプルを展示して受注販売という形をとった。特殊な販売形態ということもあり、即完売にはならなかったが、その後のナンバーナイン店舗での販売は即完売でプレミアムがつくほどになり、その後はニセものに悩まされることになる。もちろんナンバーナインそのものもその後のブレークぶりは周知の通りである。

トーキョーミッキーウィークス2000は2000年6月2日から27日の間、本当にたくさんのたくさんの方々の協力のもと、原宿の遊歩道沿いの小さなショップで行われた。この後、ほどなくミッキーは、ディズニーアパレルはしっかりとファッションとして認められ、ミッキーTeeをおしゃれに着こなしている若者を毎日どこかで見ることができるようになった。大変だったけれども僕の仕事人生のなかでもとりわけ印象深い、そして意義深い仕事となった。焼き肉屋での打ち上げの後、FCRBのミッキービブを着て原宿を歩いたあの頃が懐かしい。
TMWその3 吉田カバン桑畑さん編
グッドイナフの方から吉田カバンの方につないでいただく。長谷川さんか桑畑さんに連絡を取ってくださいということになり、何となく桑畑さんに電話をかける。なにはともあれ一度お会いしてお話をさせてくださいということで、浅草橋の吉田カバン本社に出向く。某社でカバンの営業をしていた時期には毎日のように足を運んでいた街、なつかしさとともに少し緊張も和らぐ。がポーターのバックパックを背負ってショールームで待っていた僕の前に現れた桑畑さんはポーカーフェイスでちょっと強面、緊張が走る。二階のタバコのニオイが残る応接室にとおされ商談開始。いつもより幾分早口で説明を始めるがひと通り話終えるまで表情を変えない桑畑さん。反応を待つ僕。「おもしろいですね、ディズニーさんということならうちのボスもオーケーすると思いますよ」良い人だった。「いつ頃商品できれば良いですか?」「5月にオープン予定なので、オープン前であれば問題ないです。ただプレス用にサンプルを2月くらいにあげていただけると助かります」と僕。「それなら問題ないのでまずはボスに確認して連絡します、あっでも来週出張なんでそのあとで良いですか?」「はい、全然問題ないです、大阪とか結構行かれるんですか?」「パリコレに」うっ、やっぱおしゃれだ。出張と言えば大阪の俺とは大違いだ。こうして静かに熱い男、桑畑さんとのおつきあいが始まり、初のポーターとの商品化が実現する。このときの3アイテムは今でも僕の宝物である。TMWが終わってから打ち上げということで霞町で桑畑さんと飲む、飲むとさらに熱い職人気質の桑畑さんであった。今でも桑畑さんとは不定期に無理をお願いしてお仕事させてもらっている。良い人だ。
TMWその2 藤原浩さん/グッドイナフ編
たしか金曜日の夕方だったと思う、予想通り池尻の裏手にあるオフィスは十分おしゃれな建物で、無造作に止めてある普通じゃないベンツ数台のヨコを通り抜けて軽く緊張を覚えながらエントランスだろうと思われるドアの前でピンポンする。お出迎えは真っ黒なおしゃれな二匹の大型犬、軽く股間のニオイを嗅がれたが精一杯優しい微笑みで犬の頭を撫でかえし緊張と動揺を隠す。1階は到着した洋服を仕分けてお店へ発送するでもおしゃれなスペース、そして我々(浩と書いてゆたかと読む後輩を一人連れて行きました)は2階のミーティングルームへ。浩くんはまだ来ていないらしく、こちらのAさんとお話をスタート。「すみません、遅くなりました」とソプラノ気味のトーンで5分後くらいに浩くんが合流。例によって緊張の汗を流しながら暑苦しく説明をする僕の話を一同黙ってまずは聞く。「やってみたいですね、でも他のブランドと一緒な感じにはしたくないですね」と浩くん。いいぞ。「例えばウォルトディズニーの顔の総柄とかの生地作ってそれでシャツとか作っていいですか?」うっ。「いや、ウォルトはキャラクターではないのでデザインに使うことはできないんですよ、僕らでもできないんです。あと今回はミッキーということで、、、、」『そうなんですか、じゃあちょっと考えてみます」浩くんが興味を持ちそうな気の利いたネタがこちらにある訳もなくここでミーティングはさくっと短時間で終了。色々な意味でぼうっとした頭で帰路につく。やべ、名刺入れ忘れた、と慌てて電話する。45rpmのノベルティでもらった革のやつ、ちょっと恥ずかしい。「すみません、名刺入れ忘れちゃったんですけど、ありますか?」「ありますよ」「取りにいきます」「送っておきますよ」「すみません、よろしくおねがいします」あくまでもおしゃれな対応。そして後日納得のいくアイディアが浮かばないという旨の連絡をもらいグッドイナフの参加は幻となったのでした。残念ではありましたが、このあと吉田カバンの桑畑さんをご紹介いただき、個人的にも大好きなポーターとの商品化が実現することとなったのです。浩くんとはそれ以来お会いすることはなかったわけでやはり。1999年夏、今思えば少し早すぎた出会いだったのかと。つづく
トーキョーミッキーウィークス その1
 

ディズニー社在籍時の2000年に手がけたプロモーションである。当時のキャラクター衣料というのはおよそファッションと呼べるものではなく、こども用か体型を隠すためのビッグTシャツというのがその商品群の中心でした。当然時代の流れにまったくついていけず売上は激しい右肩下がり、なんとかしろよというわけでプロジェクトスタート、といってもひとりで。社内だけでファッションの提案はできるはずもないので、外の力を借りるため、まずはおしゃれなコンセプト作りから始めました。プロモーションロゴは前から気になっていたタイクーングラフィックスさんに依頼。といっても全然知らないカタガタなので、マスコミ電話帳で電話番号調べて飛び込み営業ならぬ飛び込み依頼です。幸い鈴木さん&宮師さんとても良いヒト、引き受けてくれることになりました。で、最終的にできたのがこのロゴ&ビジュアルです。最初のプレゼンでは100種類くらい案がありました。さて、いよいよおしゃれなブランド探しの時がやってまいりました。でももちろんなんのコネもつてもないんですよ、なんて宮師さんとお話してたら、「知り合いが最近独立してブランド立ち上げたんだけど逢ってみませんか?」「はい、お願いします!」で、お会いしたのがSOPH.を立ち上げて間もない清永さんでした、1999年のことです。アディダスの紺色のジャージを上下でカッコよく着こなされていたのがとても印象的でした。で、「ミッキーに力を貸してください!!」熱く、暑苦しくトーキョーミッキーウィークス(以下TMW)について語る僕に賛同いただき「ぜひ参加させてください、あと僕の友だちも喜ぶと思うんで声掛けていいですか?」とまで言っていただきました。僕「いいっすよ、いやぜひ!」こうしてSOPH.がTMW参加ブランド第一号となりました。「ところでお友だちって、、、」「浩くんとか、あとスティルシークエンスやってるコーヘイくんとか、、、」浩くんてあの浩くん?たしかうちの会社のおしゃれ番長のウッチー情報ではグッドイナフっていう裏原でスゲー人気のあるブランドとかもやってる藤原ヒロシくんだなうんそうかおーなんかこれはちょっとすごいことになるかもと興奮気味な自分をおさえ、いよいよ次は浩くんと当時グッドイナフの洋服を作っていた会社の池尻のオフィスで会うことになった訳です。当時僕は既に37才裏原という言葉を口にするには少し恥ずかしい年頃でした。つづく。